BOOKBOX ライティングの未来形















バイリンガルライターを育てたい

『バイリンガルライターになりたい』を著したのは1993年。
当時バイリンガルのライターというのはそう多くはなかった。
翻訳通訳者兼ライターとしてのキャリアはすでに30年。
ブログやTwitterの先端ツールを駆使しながら、
今なお表現者としての創作意欲は切れることがない。
夢はバイリンガルライターを一人でも多く世に送り出すことだ。




■ライターとして

フリーのライターとして何年ですか

約30年です。私は、フリーになってほとんど同時に、ライター、翻訳、通訳を始め、4、5年経ってから英語の講師を始めました。

現在も一応全部開店中ですが、翻訳の仕事が圧倒的に多いです。最初のフリーライターの仕事は、『個人貿易成金商法』(サムライ出版)というハウツー本の中の個人貿易商のインタビュー記事です。

その中に後に世を騒がせたロス疑惑の三浦和義氏が入っていたために、後に週刊誌の取材を受けたり、ワイドショーに出演したりしました。その仕事で知り合った女性のライターの方(女性セブンのライターもしておられた)の紹介で、小学館の『コレクション』で翻訳を始め、取材もやりたいと言っていたら、半年ぐらい経った頃、取材して記事を書く「オフィスでフィットネス」という連載ページを持たせてくれ、そちらの方が面白くなってしまいました。

2年後に、この編集部が新しい人も加わって『CanCam』 の編集部になったとき、ライター、編集、翻訳のどれかを選ぶように言われ、ライターを選びました。この編集部が『CanCam』になってからは、女子大生向きの就職ものの記事の取材をしていました。

私の取材原稿を元に、芥川賞候補何回という人が最終原稿を書かれていました。ちなみに、小学館2階の『女性セブン』と『コレクション』の編集部は、石を投げれば新人賞と言われていて、担当編集者も、児童文学賞を取っている人でした。3年くらいやっていまいしたが、フリーといっても、連載があったので、低額ながら(収入が足りないので、平行して翻訳を始めたのです)収入は安定していました。

知り合いが増えて、なかには、仕事の話を持ってきてくれる人もいて、『六年の学習』(芸能ページ)、『ビッグ・トゥマロー』(著名人のインタビュー)、『週刊現代』(お花見情報など)、『週刊テーミス』(『爆笑大全集』というコラム)などの仕事もしました。


印象深いお仕事は

最初に勤めた英語教材のグロビュー社です。ビジネスマン向けの英語学習誌を作っていました。ニューズウィークのゲラを読んで企画を立て、顧問をしていた共同通信社の編集委員の方(大学時代の時事英語の先生で、倉田保雄氏。

別に紹介で入ったというのではなく、面接の時に聞かれて、授業を取っていたと答えたので、採用になったのかもしれません))に見てもらい、時には、解説者を紹介してもらいました。企画が決定したら、翻訳と解説の依頼をし、原稿をもらいに行って(当時はPCがなかった)、原稿整理し、自分でレイアウトしていました。

ゲラが出たら、校正をして校了です。要するにささっとコーディネートする女の子の仕事という感じで、金融関係の記事などはチンプンカンプンなので、解説の先生にマル投げしていました。

また、平凡社では、大百科事典の校正と事典部部長のアシスタントを兼任していました。創業者のお孫さんで私と同い年の部長によれば、新聞で募集していた雑誌のスタッフは理科系の人がほしかったのが、事典の方で欠員があったので誘ったのだそうです。

定期採用で、東大から100人の応募があったのを全員書類選考で落としていたので、嘱託とはいえ、どうして私が入ったんだろうという疑問はありましたね。なにしろ、9割が東大という会社だったのです。同期に入った女性がときどき叫びたくなるといっていました。

校正の仕事は単調な感じでしたが、いろいろな話が聞けて面白かったです。たまには、リライトをさせてもらうこともありました。『帝都物語』がヒットする前の荒俣宏さんが近くに座っていましたね。平凡社は会社更生法が適用になって嵐山光三郎さんなどの有能な人が去ってから覇権争いになっていたそうですが、私がいた一角は平凡社の台風の目と呼ばれていて、穏やかに仕事をしていました。


報酬はどの程度でしたか

私は無料で書いたことはほとんどありません。
バイリンガルライターになりたい』(DHC)の紹介関連で、田舎の新聞に無料で書いたくらいです。『コレクション』の原稿料は、400字5,000円でした。

大学のマスコミ論の先生だった柳田邦夫さんが2,000円だったそうで、取材費は別に出ると言ったら、気を悪くしていました。

下を狙うと数が多いとかで、部数が多い雑誌は原稿料が高いのです。インテリ向けの部数の少ない雑誌は安いようです。村上龍さんが、文芸誌の原稿料はお布施のようだと言っていました。


どのような媒体に記事を掲載してきましたか

『セブンコレクション』、『CanCam』、『六年の学習』、『ビッグ・トゥマロー』、『週刊現代』、『週刊テーミス』、『ViVi』などです。

雑誌と書籍の仕事については、ほとんど『バイリンガルライターになりたい』に書いています。作品は、柳田邦夫さんのアドバイスでスクラップにしています。

電子媒体は、リクナビ(リクルート社)くらいですね。機会はあったのですが、料金があまりにも安いので、乗り気になりませんでした。検索のためのキーワードを気にして書くのも、あまり面白くありませんし・・・。ブログやツイッターに好きなことを書くほうが楽しいです。

バブルがはじけて以来、生活の心配もありましたので、翻訳の比重が高くなりました。また、平凡社に勤めている間に、知り合いの編集者の移動等環境の変化があって、元のフリーライターに戻りにくくなりました。書くのは好きなので、ブログやツイッターの他にも独自に書いてはいます。ホームページに掲載しているものもあります。


「バイリンガルライターになりたい」は全部売り切れたとか
この本は翻訳者やライターたちの目標を言い表していますね

まったく関係ないところから始まるのですが、先輩ライターの鳥巣清典さんがマガジンハウスから『美空ひばり最期の795日』を出したのですが、ここは、書籍の編集部としては後発で、既成作家の原稿がなかなか取れず、新人を使う方針になったというのです。企画を出さないかと鳥巣さんが言うので、何本か考えて、1本は編集会議を通ったのですが、発行人が反対して実現しませんでした。

やはり雑誌の仕事でもしようかと思って、新聞の募集で新しい翻訳雑誌のスタッフを募集していたDHCへ面接に行きました。社長面接の時、「3足のわらじで、どれも半端になってしまいました」と言うと、吉田社長がにっこり笑われて、「翻訳や通訳について書けばいいじゃないですか」と言われました。結局、著者が足りないのでまず書籍から始めるということになり、企画を出すように誘われました。

マガジンハウスで編集会議を通ったという話をしていたので、大丈夫だと思ったのではないかと思うのです。『成功する翻訳』という企画が通ったのですが、取次ぎに企画書を見せると、タレントを取材した話を入れたほうがいいと言われ、マスコミでの経験も盛り込んだ『バイリンガルライターになりたい』になったのです。鳥巣さんが「最初から自分の話だなんて、すごいですね」と言っていました。

発行元の編集部では、まだ進行中の仕事が少なく、私が少し書けるとファックスしていたのを(グループ会社へ入力を依頼してくれていた)、編集部全員で回し読みしていたようです。英語の教科書の編集をしていたという若い女性の担当編集者が、「皆、面白いと言っていますよ」と励ましてくれました。読者は若い女性が多いと思ったので、彼女によく意見を聞きました。

仕事体験を振り返ると、人には言えないようなことも多く、すんなりとは書けずに、よく国立の大学通を散歩しながら、帰ったら割り切って書くぞと自分を励ましていました。面白い体験をしていると思われるかもしれませんが、トラブルを書けば、2倍は書けそうなのです。

吉田社長が校了のゲラを読んでくださり、「英語のスペルだけは間違えるなよ」と指示してくださいました。タイトルは、編集部で公募して、私が少し工夫して最終決定しました。担当編集者が、キーワードがあったほうがいいと言っていました。サブタイトルの「仕事半分、面白半分」は、年配の女性次長のアイデアでした。
出来上がった本を手にしたときは、ドキドキしました。

最近、ある翻訳会社の社長から、『バイリンガルライターになりたい』を読んで翻訳を始めたという若い人が多いと聞いて、とても嬉しかったです。


「ニューズウィーク」日本版論文コンテストでも優秀作だとか

『竹下首相への手紙』という所与のテーマでの短いエッセーでした。募集の記事を見たとき、これは出すといいかもとピンときたんですね。

前回応募した時に、いいところまで来ているのでまた応募するようにというお手紙を頂いていました。竹下首相(当時)は、数少ない早稲田出身の首相なので、在野精神を忘れずにがんばってくださいというような内容でした。

選考の時期にリクルート事件が発覚して、多分その関係で私のエッセーは週刊誌に掲載にならなかったのかなと思っています。賞品にワープロを頂きました。既に持っていたので、鳥巣清典さんに3万円で買ってもらいました。

その後、エジプト発掘早稲田隊を励ますパーティーで竹下元首相にお会いしたことがありますが、早稲田の仲間に囲まれてリラックスされている感じで、テレビで見るよりずっと感じのいい人でした。発掘に予算をつけたことをアピールされていましたね。


そもそもライターになろうとしていたのですか

私は、京都府丹後という田舎で高校まで過ごしたために、東京へ出てきてから、世の中がどうなっているのか見当がつきませんでした。居場所がわからない症候群だったのです。

英語教材の編集をしている時も、自分が何をしたいのかよくわからないという状態でした。マスコミ論のゼミ(文芸科のゼミだったのですが、演劇科で英語の教職を取っていて単位が半端になったので、取っていたのです)の柳田邦夫さんが書いた方がいいと言っていましたが、彼の話はなんだか陰気で、私には合わないと感じていました。

しかし、教材の編集で、リードを考えていると、なんだか魚が水を得たようにイキイキしてくるんですね。その方向でやってみようかなと思いました。読んだり書いたりが好きなのは、生まれつきの性質だと思います。他の事には、向かないんですね。

いいものを書くための努力というのは、いいものを読むことだと思って、今も続けています。また、人の話や旅で見聞を広め、感性を磨くことでしょうか。ライターの魅力というのは、ものの見方の深さ、鋭さ、個性だと思うんですね。


取材やライティングで、どのようなことを心掛けていますか

書く対象に対する新鮮な感動を大切にすることです。それがなくなったら終わりだと思います。できる限りテーマに関して資料を読むことで、原稿に深みが出ると思うのですが、締め切りのある仕事では、見切り発車が多いです。

また、取材では、相手の下調べを十分にすること、理解する努力をすることですね。相手の魅力がわかっていると、いい仕事が出来ると思います。

猪俣公章氏に電話でインタビューしたとき、「『それが恋』という曲を聞いて、一度お願いしたいと思っていました」と言ったら、「あんたたちの仕事も大変だね」なんて言って、ご機嫌で2時間も話してくださいました。逆に、顔をあわせた途端に嫌われたとわかったというのもあります。

気分が乗っていないのが、原稿に出ます。いろいろな人がいるのでどんなこともありますが、誠意を失わないことが大切だと思います。相手の人生の一部を公にするのですから。


どのような点が難しいと

ライティングでは、読者の意識が常に流動的で(自分もそうですけど)、どう書けば興味を持つかというのが常に変化しているんですね。小学館では、3ヶ月一昔と言われていました。空気が読めなくなったら、ライターとしてもう年だということになるのかもしれません。

取材の難しさといえば、財閥系の銀行のOLさんに取材をお願いしたことがあるのですが、ずっと広報の人が付いていました。エレベーターの中で、取材対象者と二人きりになったとたんに、「私、何度も泣いたんです」と言われました。

真実に迫らないとおもしろい記事にならないし、読者が読む意味がないと思うのですが、銀行が広告を出しているというようなこともあって、バランスの取り方が難しいと思います。


では、ライティングのどのような点が面白いと

私は、書くこと自体に快感があります。

ひまわりの種からひまわりの花が咲き、小鳥が囀るのと同じだと思います。取材したり資料を読んだりしていて、何か発見があったとき、楽しいと思います。
だんだん視点が上がっていくんですね。小高い丘の上に立つと、何か救いがあったりもします。


今後、どのような記事を書いてみたいですか

年を重ねて少しは小高い丘の上にいると思うので、自分の視点が生かせるようなものを書いてみたいと思います。時代の真実を映す鏡になりたい。

また、今は、雑誌等のライターの仕事はあまりしていませんが、長期的な計画で書いています。内容は、秘密です。ブログやツイッターで、日々書きたいという欲求は満たしています。


翻訳者とライターを兼ねていることについて、どのようにお考えですか。

ライターは、お金のためだけにするのはきつい仕事だと思います。ライターとしては気の向くものだけを書き、翻訳で生活を支えるというのは、多分、快適だと思います。

私は最初から3足のわらじだったので、ライターだけという生活がよくわからないのですが、他のライターの人から、仕事が選べていいと言われたことがあります。

翻訳とライターに必要な知識やスキルはかなり共通していて、ライターの経験が翻訳の仕事に結び付くこともあります。書いていると、その分野の背景知識と日本語の表現力はありそうだし、英語は英検1級で翻訳の経歴も長いというように思われるようです。書く際に英文資料が使えるというメリットもあります。

今はグローバル化がトレンドですから、ライターも、英語くらい読めなくてはやっていけなくなるかもしれません。翻訳料金は下がっているといっても、それほど安くはありませんから。

■通訳者として

通訳者としての年数は

翻訳者・ライターとしてフリーになったのとほぼ同時期なので、約30年です。
ただ、あまり回数はこなしていません。積極的に広げていないというのもあります。機会があれば引き受けるというスタンスです。

英語と日本語のやり取りなので、英訳と和訳を交互に行うことになります。通訳というのは、分野を選んでいると、仕事として成り立たないと言われています。

私は特に通訳を志していたわけではないので、打診があったときに、対応できそうな内容ならば、引き受けることにしています。翻訳で経験のある内容がほとんどですが、天文学が好きで少しは本を読んでいるので、プラネタリウムのソフトのデモンストレーションの通訳をしたというようなこともありました。楽しかったです。


通訳での印象深いエピソードは

『すばる』(集英社)の誌上に掲載された、作家のインタビューや鼎談の通訳です。
アラン・シリトー氏、村上龍氏、黒井千次氏の鼎談、レナード・コーエン氏のインタビュー、ソル・ユーリック氏のインタビューなど。自分でも英語教材のリードを書いたり雑誌の記事を書いたりしていたので、話の内容がわかりやすかったのだと思います。「Aの家にはスイカズラのツタが絡まってきて、そのうちAの心にも、スイカズラのツタが絡まってきたのです・・・」というような表現を直感的に理解する人とそう;でない人がいるみたいですね。

一応、文学部出身ですし。レナード・コーエン氏をインタビューした青山南氏に、「文学でお金がもらえるとは思いませんでした」と言って、苦笑させてしまいました。アラン・シリトー氏を含む鼎談の時は、話が作品の細部に及んだ時に備えて、シリトーの作品の翻訳を手がけていらした東大の大井先生に来ていただいていたのですが、編集の方が、「シリトーは世慣れているから、外国人に難しい話をしたりはしない」と言っていました。

これを境に、私は、一般読者から、内部のスタッフになったような気がします。大学時代に、村上龍氏が『限りなく透明に近いブルー』でデビューされたときに、大学の先生が「これはすごいぞ」とおっしゃったので、帰りに本を買ったことがあり、仕事で会えて嬉しかったです。編集者に、「学生さんみたいな感じがしますね」と言うと、「学生から社会生活を経ずに作家になったんだよ」と言っていました。

『限りなく透明に近いブルー』をどう訳そうかなと思っていたら、「Almost Transparent Blue」というのだと、教えてくれました。講談社インターナショナルから英語版が出ていたのです。自分で英語を話す作家が増えて、だんだん私の出番がなくなったようです。


世界的な要人の方を通訳することもありますね

元国務次官補グレゴリー・ニューウェル氏の商談(アルバ株式会社)はよく覚えていますね。ウェブで見たといって、PHSに電話がかかってきて、簡単な商談だということなので、引き受けました。商談の相手が元政治家だというので、Wikiを見てみたら、牛肉オレンジの貿易摩擦の頃、よくテレビで見かけたあの国務次官補のニューウェル氏だとわかって驚きました。

ニュー・オータニでクライアントと待ち合わせて打ち合わせをしたのですが、随分立派な人が出てきたなあという感じでした。名刺の交換が終わると、ニューウェル氏は、「It’s an honor to meet you.」(よほど会いたかった大スターなどに会った時の表現だそうです)と言われ、私達は話しやすくなりました。出世する人はどこか違うなあなどと感心しておりました。頭のいい人の話というのは理解しやすく、通訳は比較的楽でした。通訳のプロセスを明確に把握しておられるのがわかり、物事はこういう風に理解した上で進めなくてはうまくいかないだろうと思いました。

同氏は英語がセカンド・ラングエージの日本人に慣れておられ(1,000回以上日本へ来ているとか)、誤解しないように話してくださったり、絶妙のタイミングで休憩を取ろうと言ってくださったりで、ずっと感心していました。

名刺には、「U.S. Ambassador, RET’D」と書かれており、スエーデン大使をされていたそうです。国際ビジネス・コンサルタントとして活躍中ということでした。帰りのエレベーターの中で、明後日ブッシュ大統領と会うのだと仰っていました。商談の内容に関連して、何か聞いてみるというようなことでした。平時ではないという空気を感じつつも、世界のヒノキ舞台を垣間見たようで、エキサイティングな一日でした。


はじめての通訳は

フリーで翻訳を始めた時に、翻訳エージェントに登録したのですが、そこから当日の依頼で人がいないからやってみませんかと言われて、繊研新聞のヘアデザイナーへのインタビューの通訳をしたのが最初でした。

『コレクション』(小学館)が、フィットネスやヘアメークの雑誌だったので、インタビューの内容がわかりやすく、また、記事が書きやすいように例示を逐一訳すなどしたのがよかったのか、クライアントがほめてくださったようです。

1時間半くらいで、20,000円もギャラをもらったので、この仕事もできるといいなと思いました。運良く、それから、ときどき仕事が入るようになりました。私は、京都の片田舎から出てきていて、自分が通訳をするなんて夢にも思っていなかったのですが、職務経歴に書くので、他のエージェントからも仕事が入るようになりました。


通訳と翻訳の実務上の大きな違いはありますか

翻訳では和訳か英訳かどちらかの一方通行ですが、通訳は、両方向をこなさなければなりません。また、翻訳はじっくり調べたり考えたりできますが、通訳は自分が持っている知識で勝負しなければなりません。一方、通訳は、リテンションと言われている聞いた内容を覚えている能力が必要で(忘れてしまえば、訳すことはできません)、一部の通訳学校では、適性検査を行っているようです。

私は、通訳では、ファッションも大切だと感じています。場となるのが一流のホテルが多いということもありますが、クライアントの印象を左右すると思うのです。

一昨年、CEATECでJETROの商談会の通訳をしたのですが、これは、外国の会社がプレゼンをして、興味を持った日本の会社の人が商談を申し込むというスタイルでした。1日目は、黒のスーツ、2日目はアイボリーと茶色のエレガントな感じの柄物のスーツにしたのですが、1日目に担当した会社の人が、2日目の服の方がよかったと思われたみたいです。場の印象が変わると思います。なかには女性だというだけで仕事に不安を感じる人もいるので、なるべくダークカラーを選ぶようにしています。


■翻訳者として

翻訳者としてキャリアも30年ということですね

はい、その間に2度ほど契約で勤めたことがあります。
母国語は日本語で、和訳、英訳ともに行い、分野は、映画を含むメディア、契約書、金融、ファッションなど、多分例外的に幅広いと思います。

ニューズウィークの版権を使ったビジネス英語の教材の編集をしていた(この時は翻訳の外注をしていた)出版社を辞めて、アルバイトにと思って新聞の募集で見つけたのが、ロス疑惑で有名になった『個人貿易成金商法』のフリーライターの仕事でした。

そのときご一緒させていただいた先輩ライターの紹介で、小学館の『コレクション』(後に『セブンコレクション』と改名)という月刊誌が版権を持っていたSelf誌の和訳の仕事を始めました。

その後、多分小学館のネームバリューのおかげで、経験のない分野の仕事もしやすく、多様な仕事をすることになりました。


翻訳とライターの仕事がいっしょに舞い込んだわけですね

『個人貿易成金商法』のライターの仕事を通じ、『女性セブン』のライターと出会ったのですが、この女性ライターがたまたま女性セブンの編集部の隣にあった『セブンコレクション』の編集部の人から、翻訳者を紹介してほしいと頼まれていたのです。
私の英検1級が決め手になったと聞いています。

レイアウトの文字数に合わせて翻訳したので、表現を工夫する訓練になったと思いますし、編集者が雑誌にマッチするようにリライトしてくださっていたので、とてもよい勉強になりました。
また、この頃、生活のために、エージェントに登録してビジネス関係の翻訳を始めました。


ハリウッド映画の脚本も手掛けていますね

その時登録したエージェントの社長から電話がかかってきて、「映画(松竹富士)の脚本の話が来てるんだけど、1本15万円だと言うんだ。調べてみたら、Aさん(映画翻訳の第一人者として有名)がその値段でやっているんだ。うちはこんな仕事いらないけど、あなたがやるというのならとってあげます」と。

一度やってみるかと思って引き受けましたが、料金は小学館の3分の1以下でした。ハリウッドで書かれた脚本を、日本の配給会社が日本向けに意見(日本での流行など)を述べて、撮影前に、リライトするのだそうです。仕事は面白いのですが、あまりにも安いので、その後乗り気になりませんでした。

数年前、ハリウッドのリテラリー・エージェンシーに見せるというホラー映画の脚本の英訳を頼まれて、ネットでネイティブのリライターを募集したのですが、掲載後1時間くらいで、世界中から十数名の応募があり、料金はいくらでもよいという人が多かったのです。異様に安い料金で成り立つ分野のようです。

ちなみに、依頼の電話が来た時に寝ていたために頭がぼんやりしていて、産業翻訳のレートを言ったら相手がOKしたので、この時の料金は悪くありませんでした。


『ViVi』(講談社)の仕事はどこからお誘いが

『ViVi』(講談社)は、やはり先輩のライターの人から電話がかかってきて、「働く女性向けの雑誌ができるので行ってみないか」と言われたのがきっかけです。

副編集長に会うと、『non-no』みたいな本を作るんだと言っていました。新雑誌全体の企画書を見せて、「どういうのがいい?」と聞かれたので、映画スターのにしようかなと言って、ハリソン・フォードのインタビュー記事を訳すことになりました。

その先輩のライターというのが有名女優と結婚していて、週刊誌の編集部に時々ネタを提供しているんだそうです。そのおかげか私の自己プレゼンがよかったのかはわかりませんが、演劇専攻ではあったけれどどうせ私には皆に人気の仕事をする機会はないだろうと思っていたところへ、突如そのまれな機会が訪れたのです。

こんなことならもっと勉強しておけばよかったと思いながらの見切り発車でした。普通、翻訳を頼んでから、ライターを頼むらしいのですが、私だと両方やっているので、手間とコストが抑えられたということもあったようです。

その後、英語のインタビュー記事を元に取材も加えて読み物にするという『女を生きる』という企画で、ナスターシャ・キンスキーシェリル・ラッドジェーン・フォンダブルック・シールズなどの記事を書かせていただきました。


『世界の中の日本』(NHK)も訳されていますね

新聞で『翻訳の世界』の編集を募集していて、その面接の時に、NHK特集の翻訳があるんだけどそちらには興味ないですかと聞かれました。面接したのが、バベル・インターナショナルの営業をしていた人だったんです。

始めのうちは、渋谷の局へ行って訳していました。衛星で入ってくる音声を起こしながらタイプする人がいて、それを私達が訳しました。中に翻訳奨励賞の受賞者がいて、NHKの人がなるべくその人に頼もうとしていたのが印象に残っています。

スピードが必要だったので、大学受験用の参考書に一通り目を通して、解釈の速度を上げました。また、内容が時事だったので、新聞を読むときに表現に注意するようになりました。ある時、レーガン大統領の演説を訳したのですが、英語がとても明快なのに感心していました。3年くらい携わっていましたが、ある時、プロデューサーが変わって他の業者を使うようになったとか言っていました。


『ニュース・ステーション』の翻訳

ジャパン・タイムズで、エージェントが募集していました。エージェントの社長でこの番組のレポーターをしていた女性(佐々木かおり氏)が夏休みだったので、その代わりだったようです。夏休み特集のグランド・キャニオン紀行でした。

撮影スタッフが帰ってきたばかりで、明日放送するというので、かなりプレッシャーを感じました。わからないかもしれないという不安はいつでもあるのです。

ここでは、テープ起こしをしながら翻訳しました。夜の11時ごろになっても全然終わらず、ディレクターの人が「後1時間やってくれよ」と何度も言い、遂に深夜の2時に。お昼にANAホテルでごちそうになっていたので、なんとなく断れなかったんですね。

このままでは頭が働かないと思い、一旦帰宅して早朝に出てきて、なんとか放送に間に合うように訳しました。タクシーの運転手さんが、この業界は25時26時という言葉があって、深夜2時なんて早い方だと言われたので、テレビの仕事は、健康と美容に悪そうだなと思いました。


共同通信社の翻訳も手掛けていますね

911のテロが起こり、翻訳の仕事がかなり不安定になっていたので、ジャパン・タイムズの求人広告を見て、可能性のありそうなところは応募するようにしていました。Kyodo News Serviceのtranslator募集を見て、多分ダメだろうと思いましたが(私は平凡社にいたことがあるのですが、新聞の3行の求人広告で約3,000人の応募があると聞いていました。マスコミは当時、超人気だったです)、書類を出しておきました。

この時買ったジャパン・タイムズで、炭疽菌の事件の記事を読んでいましたら、面接で、炭疽菌はなんというか知っているかと聞かれて、たまたまanthraxと覚えていたのが功を奏し、合格につながったようです。

村上龍氏のJMMで経済問題をフォローしている(私は経済の基礎知識がまともになかったので、解説的なものを読むしかなかったのです)と答えたのも、変わってはいるけれど、まあフォローしているというような印象を持たれたようです。

実際には、新聞社の国際部にいたような人を採るつもりだったそうですが、パソコンができないとどうにもならないので、私になったらしいです。私以外は社団法人共同通信社(情報サービスは株式会社共同通信社)のOBばかりでした。


どのような仕事でしたか

共同通信社での仕事の内容は、総理官邸向けの情報サービスに関する仕事でしたが、
翻訳と書いてあったにもかかわらず、実は翻訳編集でした。元特派員の人に訳してもらった記事(共同のデータベースから、UPIやAPなどの記事を1日2本選ぶ)を整理して、官邸へ送信するのが仕事でした。

翻訳者が手配できない時は、私が訳しました。僭越ながら、誤訳のチェックもさせていただきました。たとえば、元モスクワ特派員のロシアものの翻訳というのが実は要注意で、思い込みによる誤訳が発生しやすいのです。アフガン攻撃の頃で、翻訳が上がってくる頃には、戦局が変わっているというようなことも、たびたびありました。私の前任者の元特派員の方は、脳卒中で倒れたのだそうです。


そもそも翻訳者になろうとした動機は

高校、大学とESS(英会話のクラブ)に入っていて、かなりの労力と時間をかけたので、止めてしまうのももったいないというような思いで先へ進んだという感じで、それほど高い志があったのではありません。

私が卒業した頃は、雇用機会均等法もなく(その何年か後で平凡社にいた頃、署名集めを手伝いました)、あまり選択肢がなかったということもありました。英語教材の編集をしていた時、仕事で毎日のようにニューズウィークのゲラを読んでいたので、驚くほど英語力がアップしました。

また、原稿を頼んでいたのが、サイマルの村松増美氏、小林薫氏といった当時の英語界の中心人物たちだったので、その世界の様子がリアルにわかったと思います。英検1級に受かった後(まだ勤めていた)、ためしに、ジャパン・タイムズの翻訳会社の募集に応募してみたら受かって、カルピスの広告戦略の仕事が無事納品でき、アルバイトに翻訳というスタンスができました。

会社を辞めたとき、フリーライターの仕事が面白くなり、翻訳のアルバイトで生活を支えました。フリーでも、翻訳だと銀行系のクレジットカードが作れたんですね。


翻訳の品質を維持するために、どのような工夫を

本を読んでいて、翻訳に使えそうだと思うページはコピーして、翻訳資料としてファイルしています。もう3冊たまりました。

また、翻訳の参考書に、1日2ページずつくらいマーカーをつけながら目を通しています。ちょうど『金融英語の意味と読み方』という本が終わったところで、今度は、あまり仕事で経験のない医薬系の参考書を勉強しています。単なる気まぐれです。

翻訳は、分野といっても交錯しているので、いろいろな分野の知識(現場で使われている表現や背景知識)があるほうがいいと思います。たとえば、納品を終えたばかりのファッション・ブランド買収の広報資料は、ファッションの知識と金融の知識が必要でした。

ロンドンの会社の仕事だったのですが、広報の在り方が変わってきたのがわかりました。産業界は常に変化し、翻訳の内容も変化するので、それをフォローする努力が必要だと思います。


最近では、どのような翻訳を扱っていますか

最近は、就業規則(英訳)、M&Aの広報資料(和訳)、株の売買関係の契約書(和訳)などがありましたね。話としては、以前仕事をしていたグローバル法律事務所の金融証券グループからの仕事の誘いをもらったのですが、スケジュールが合いませんでした。就業規則の英訳は、持っている雛形の表現をネイティブがリライトしてきたり、他のネイティブがまた違った表現にリライトしたりで、迷ってしまいます。

英語が母国語ではないので、自信がもてないのが辛いところです。金融関係は、次々と新しい内容が出てくるので、理解が大変です。契約書は量をこなしているので、最も安心して取り組める分野です。


翻訳のどのような点が面白いですか
翻訳者として楽しいと感じるときはどのようなときですか

いい表現を思いつくと、快感があります。表現を工夫するのが好きなんですね。

また、仕事の面白さというのではないかもしれませんが、ビジネスの最前線の情報が読めるのもエキサイティングです。守秘契約を結ぶのが普通になっているので、うっかりしゃべると大変だという内容のことも多いのですが、それだけに、かなり面白いです。

これまでで最も面白かったのは、リップルウッドが長銀の買収の検討をする際の財務内容を訳したときで、なにしろ、レポーターが来ても一切話してはいけないと緘口令がでていたくらいなので、報道されないようなことも随分知っていました。

地下通路の出入り口には、テレビ局の隠しカメラが仕掛けてあったんだそうです(後に、ノヴァの私の翻訳講座に見えた生徒さんのなかに、そのときのIT技術者の方がいらして、その方から聞きました)。このときは、朝目が覚めたとたんに、訳す内容が楽しみで、ワクワクしました。

最近は、翻訳の世界にもグローバル化の波が押し寄せ、外国のエージェントの仕事もしています。メールのやりとりだけですが、外人のコーディネーターと仕事をするのも面白いです。今、ロンドンから、日本語でインタビューして英語で書くという仕事が来ています。


今後、どのような翻訳を手がけてみたいですか

今後、世界の新しい金融秩序が出来てくると思うのですが、その関係のものが訳せると面白いと思います。実は、金融関係は苦手だったんですが、数年前に、シンガポールからメールが来て、金融翻訳を教えに来てほしいと言われたことがあったのです。

時給15,000円と破格の待遇で、仕事の合間にたっぷり観光もできそうな話だったのですが、テキストを見て無理だと思って断ったんです。悔しかったので、金融関係の本を読み始めたんですね。少し勉強すると面白くなって、深入りしてしまいました。金融だけでなく、グローバル経済の最前線の情報を訳せると面白そうだと思います。

文芸関係の翻訳は、集英社のすばる誌で少ししただけなのですが、機会があれば、今連続して読んでいるダニエル・スティールの作品を訳してみたいですね。翻訳が出ている作品はほとんど読んだのですが、新しい作品の訳本が出ていないんです。


翻訳を教えていらっしゃいますね

翻訳の授業では、琵琶法師のように、他の仕事の体験談を語っています。

翻訳(和訳)の授業で強調しているのは、英語と日本語のやりとりなので、両方の語学力が必要だということです。英語ができれば翻訳が出来ると思っている人が、多いんですね。日本人だから日本語は大丈夫ということはなくて、訳そうとしている分野の日本語を知らなければなりません。

また、訳文は、読み手がわかるかどうかという視点を持つようにということも、折に触れ話すようにしています。


バイリンガルライターを育てたいと

そうですね。
すでに小高い丘に立ってきているように思えていますので、できれば、これまでの経験を伝えていきたいと思います。

翻訳や通訳、執筆というのは、底で繋がっている表現の仕事です。
訳文をつくる作業と言うのは、じつはライターの仕事と同じなんですね。
翻訳を志す人は、表現の工夫が好きだという人が多いので、その面白さを伝えたいと志しています。